VOL.4 奥村雪男役・福山 潤
オフィシャルインタビュー

TEXT=鈴木 杏(ツヅリア)

『雪ノ果篇』からこそが、一番やりたいと願ってきたところでした

――改めて福山さんが『雪ノ果篇』制作を聞いた際の率直な心境からお聞かせください。

嬉しかったという言葉では、軽すぎるかもしれません。というのも、まさに『雪ノ果篇』からこそが、『青エク』でも僕が一番やりたい!と思っていたところなんです。7年前に放送された『京都不浄王篇』の終盤で、雪男は不浄王を倒してヘラヘラ戻ってきた燐を殴り付け「ふざけるな!」と言っていましたけど、あそこから彼が燐に本心をぶつけるようになってきます。あのシーンを演じたときに、僕のなかにもさらに一歩踏み込んで雪男の骨格を作れた感覚がありました。それから気付けば7年が経った今、まさか願いが叶う日が来るとは、という気持ちです。

――では今年1月から放送された『島根啓明結社篇』の頃から、楽しみにされていたのですね。

そうですね。ただ『島根啓明結社篇』収録時に「『雪ノ果篇』と『終夜篇』もやれそう」と伺ってはいたものの、僕らの世界って100%世に出ますよと確約されるわけではないので、『雪ノ果篇』『終夜篇』が本格的に動き出したときは、ただただ嬉しかったです。あそこがやれるんだ!という気持ちと共に、それならしっかりやらねば!と気が引き締まりました。

――それでは『雪ノ果篇』のお話に入る前に、『島根啓明結社篇』のことも少し振り返れたらと思います。雪男は敵勢力のイルミナティから勧誘を受けるという、大きな展開を迎える物語でした。揺れ動かざるを得なくなる彼を演じながら、福山さんはどんなお気持ちでしたか?

実は『島根啓明結社篇』は、セリフだけ見ると雪男の心情はそこまで描かれていないんですよね。正十字騎士團に所属してなんとか立ち回りながら、悪魔との戦いを乗り越えていく……という大きな道を歩いていたはずが、どうやらこの道、太くないぞ……?ということが分かってくる。しかも組織内での自分の立場も危うくなり、イルミナティからはひとつの脇道を提示され、じゃあどうしようか……と考え始めている段階にあります。いわゆる嵐の前の静けさというか、明らかに不穏な空気が流れ始めている雪男が見られたシリーズでした。

――実際雪男は、イルミナティからの勧誘を突っぱねていました。

「ふざけるな!」と言ってはいますし、彼が本当のところどう思っているかは分からないにしろ、騎士團にバレたら明らかにまずいことは事実ですよね。もちろん雪男は、それを自ら詳らかにするほど愚かではない。ただ組織内では孤立し始めている……という印象です。

――ちなみにイルミナティの総帥・ルシフェルには、どんな印章を抱かれましたか?

“一番のカオス”ですかね。メフィストが一番複雑なキャラクターだとしたら、ルシフェルは誰よりもシンプルなキャラクターだと思います。行動原理が一貫していて、強大というよりも如何ともし難い人だなと感じました。

出雲は雪男に少し近いからこそ、優しくなれないのかもしれない

――『島根啓明結社篇』で中心となった出雲についてはいかがですか?

これは雪男目線ですが、恐らく彼はそこまで大事には捉えていないと思います。もちろん人として慮る心はありつつも、とにかくひとつのミッションとしてこの事態を収めよう、という頭かと。正直、出雲が可哀想だとか考えている余裕がないと思うんですよね。多分燐は出雲が可哀想だと思っていると思いますけど。自分たちの身の上もそうですし、騎士團や祓魔塾に入ってくる人は、みんな何かしらの事情を抱えている。京都組の明陀宗も、青い夜を経験していますし。だからあの状況で出雲に思いを寄せてあげられるほど、雪男は優しくないと思います。実際雪男って、出雲に対してそこまで優しい言葉は掛けていないと思うんです。正直、この程度の辛い経験は当たり前と思っているだろうなと。例えば獅郎だとか、世界の真ん中にいる人たちは、詳細は分からずともきっともっと酷いことを乗り越えていて、雪男はそういう人たちと直に関わっていますから。

――では福山さん自身は、出雲についてどう感じられましたか?

災難でしかないですよね。ただ外野がどう思おうと、本人の本当の気持ちを感じ取ることは不可能です。寄り添ってあげることが救いになるのであれば、そうしてあげたほうがいいんでしょうけど、彼女はそれを求めていませんし、状況打破のほうが重要だと考えていたと思います。そこは雪男と近い部分として挙げられるかもしれません。出雲は雪男にどこか近い部分もあると思いますが、だからこそ余計に雪男は、優しい気持ちになれないんじゃないですか? だって自分が選んだことでしょう?っていう。そこで「ひとりじゃないですよ」と優しく言葉を掛けてあげられるメンタリティがもしあるのであれば、彼自身もそうなっているはず。自分が決めたこと、自分で課したことに関して、雪男は踏み込めないんじゃないですかね。雪男自身がそこを乗り越えられていないので。

――一方燐は全力でしたね。

そうですね。共感したり、共感まで行かずとも相手を慮ってあげられるのが燐なので。対して雪男は、あくまで状況をどうするかしか考えていない、というところですね。

――『島根啓明結社篇』で活躍が光っていたなと感じるのは?

名実ともに外道院(ミハエル)は輝いていましたね! キャラクターとしての華がありました。「外道院」という名前からして、役割は決まっているじゃないですか。悪役としても、面白キャラとしても、イルミナティの状況を教えてくれる存在としても、観ていて楽しい存在でした。それこそ外道院が輝かなければ、『島根啓明結社篇』はただただキツいだけで終わってしまいますから! 逆に言えば、出雲たちに胸を揺さぶられたのも外道院のおかげだと考えると、退場の瞬間までひたすらに輝いていたなと感じます。

燐を撃ったのは“練習”だったのだろうと

――ではここからは『雪ノ果篇』について伺っていきます。第4話では雪男から「ごめん、兄さん。僕は強くなりたいんだ」と、八郎太郎の強力な肉体再生能力を欲する言葉が出ていました。

僕はあの言葉どおりに受け取りました。八郎を騙すつもりもあるけれど、そのまま本当に力を得るのも良いという。結局謀る方向に行きましたが、もし状況が許すのであれば、力を得る可能性もあったと思います。本当に相手を騙そうと考えたときに、真実を混ぜるのは正しい手段ですし、実際強くなりたいというのも雪男の本心でしょうから。あとはどう転ぶかによってアドリブで……というところで、どこまでその覚悟を持っていたかは実際その状況にならなければ分からないとは思いつつ、ふたつみっつ本心を混ぜていたと思います。

――やはり燐よりも強くなりたいという想いが根幹にあるというか。

それもそうですし、結局燐の強さを良しとしてしまうと、雪男がやっていることって何の意味も持たなくなってしまうんですよね。燐を抑える力が必要ということもありますし、何より一番重要なのは、自分自身を認めるためにも雪男には強さが必要で。彼は内的要因で自分を立たせることができずにいる人間ですから、外的要因でもなんでもいいので、自分を立たせる理由を持たないと……というところがあるのだと思っています。

――見せかけながら、燐を撃つという行動も取りました。

あれは“練習”だと思いました。雪男って、「何が何でも、絶対兄を守る!」という考えではないと思っていて。万が一、兄が悪魔化してしまい、誰かが止めなければならない状況になったら、その役割を果たすべきは自分だろうという覚悟はある。ただし、そこで本当に自分は撃てるのか……?と。だから実際に撃てるかどうかを、練習してみたのではないでしょうか。たとえ栄養剤でも、100%撃てる確証はありませんから。ただ兄を撃つ覚悟自体は、元々持っていたと思います。

――その後のバトルシーンでは、「催眠は操られるって意味だぞ」と忠告したにもかかわらず、簡単に催眠にかかる兄に衝撃を受ける雪男という、緊迫した状況ながらコメディ感ある兄弟の掛け合いが楽しくて印象的です。

まったくコメディとしてはやっていなかったんですけど、コメディとはそういうものなんだと思います(笑)。雪男はどこまで行っても、燐の知的レベルを信用していないんです。燐は言葉尻で行動してしまうから、内容をちゃんと説明しないと!という気持ちだったんでしょうね。

八郎はただただ哀れに映りました

――そのほかに『青森・八郎太郎篇』にあたるエピソードで、兄弟のやりとりとして印象に残っているのは?

旅館でのやりとりも楽しいギャグ要素だったと思いますが、あそこは毎年出させていただく『ジャンプフェスタ』のステージで、一度演じさせていただいたところで。「ここもアニメ化できたらいいよね」と、ファンのみなさんと共有していたシーンだったため、面白いだけではなく、それが実現したという意味でも印象深いです。

――では『青森・八郎太郎篇』を演じていて楽しかったところは?

やはりみなさんからもよく挙げていただく、第4話の「僕が全力で孕ませる」でしょうか。一度全力で演じてみたところ、「願望を入れるな!」と怒られまして(笑)。望まれているかな?と、とりあえずやってみたんですけど。ああいう発言と本心が違ったり、本音を何割か混ぜていたりというセリフは、やっぱり演じていても楽しいです。

――ちなみに八郎太郎の印象はいかがでしょう?

哀れの一択ですね。ただただ哀れ。彼自身言っていましたけど、死ねない体であることは果たして幸せなのか?という話で。人間と交わってしまった悪魔の行く末というか、同じ姿形になる人間を同じ辰子とみなして存在させ続けることで、“自分はひとりじゃない”と感じたい……と彼は考えた。これって自己投影みたいなものの行き着く先で、とっくに心は壊れてしまっていると思うんです。肉体的には死ねないのに、メンタリティは人と同じって、地獄でしかない。だって死ねるからこそ欲求には価値があるわけで、死ねないとなったら、多分欲求って持たなくていいものですから。じゃあその欲求をどこに転化するかというと、自分のことを分かってくれる人、自分を認めてくれる人、自分との記憶を共有できる人……といった、超常的な話になってしまう。昔話などで不老不死を求める人っていますけど、それって人間の実態が伴わない欲望で。とにかく心が存在するのであれば、長生きなことって決して幸せとは言えない。むしろ群体で生きていく生物にとっては、不幸せかなと僕は思います。だから八郎太郎に関しては、可哀想ではなく、哀れと言ったほうが正しいかなと感じます。

13年前以上に、雪男はまだまだ子供なんだと感じています

――福山さんが『青エク』に13年以上携わってきたなかで、今見えてきた雪男の一面はありますか?

大人ぶっていますけど、完全な子供というところですね(笑)。雪男って能力こそ高いものの、自身が抱えるコンプレックスが解消されてしまったら、言い方は悪いですけれど、恐らく一番何もできない人になるんです。なぜなら彼の行動原理は、そのコンプレックスこそをエネルギーにしているので。“自分がない”ことは彼も自分でよく分かっているはずで、このまま大人になってしまうと、ただ折り合いが付けられない人間になってしまう。若いともがくことがあれど、大人になればそれも受け入れられることって多いですからね。そういう意味で、同年代からは大人に見えるけれど、大人たちから見るとやっぱり雪男はまだまだ子供で、実際騎士團内では少年扱いされています。そのバランスが良いなと思いつつ、13年前『青エク』に参加した当時以上に、今は子供に感じます。

――今作を通して、具体的に子供だなと感じたところは?

「自分で何とかできる」と「何とかしたい」と「何とかしなきゃ」を、混同してしまっているところです(笑)。本来、全部別ものですから。ただまだ10代半ばの思春期真っ只中ですし、そうなるのも当然だろうとも思います。

――ご自身と雪男に共通点を感じる部分はありますか?

「それはそれで良い」という考えを持っているところです。破滅願望ではないのですが、守ろうとするものがあって、でもそれを守れないならば、別に壊す方向でも良いか……というのは、理解できなくない考え方です。そうなったとしても、それはそれという。

――雪男はよく考えるタイプですが、福山さんも熟考され、それに伴う言語化も巧みな方という印象があります。

確かに僕は考えるタイプではあるのですが、この仕事に就いていなければ、こうはなっていなかったかなと思います。元々「何でだろう?」と、ハテナが出るタイプではあったんです。でも学生時代って答えをもらえないし、なんなら答えが出なくたって良いわけで。でも僕ら声優は、セリフを通して他人を演じなければいけないし、自分自身にも説明する必要がある。具体的には、僕らは日々ディレクションなどからやってほしいことを言われて、はい分かりました、と求められたお芝居をしますよね。でもそのときに、「これはこういうことなんだ」と自分を納得させる説明が必要になるんです。そのための言語力がないのは、僕の精神衛生上とてもよろしくなかった。だから人に伝えるためというより、自分自身を理解させるために言葉を持たなければと。そこでまずは言われたことの“翻訳作業”をするようになりました。僕の考えとして、自分の頭の中で思っていることって、実際には思っていないことというのがありまして。「そうそう、そう思っていた」って、言語化されていない以上、それは嘘なんですよ。それもひとつの選択肢と考えていた……と自分では捉えているかもしれないけれど、口に出せていない時点で、本当は思っていないのと同義です。そういう考えからも、この仕事をするうえで、そして自分が生きていくうえでも、思っていることを言葉にするのはとても重要なことだな、と考えるようになりました。

――そう考えるようになったのは、いつ頃でしたか?

二十歳頃です。そこから訓練し始めました。元来考えるタイプ、考えるのが好きなタイプというより、常に疑問を持つようにしているタイプ、と言ったほうが正しいかもしれません。「何でこう思って、この行動を取っているんだろう?」「何でこの話をされているんだろう?」「何で自分の話を理解してもらえないんだろう?」……そういう一個一個の疑問を、『青エク』をはじめとするどの作品でも持っています。

声優を続けてきて、今が一番楽しいです

――ではこの13年で見つけた声優という仕事の楽しさは?

実はこの4〜5年で、やっとこの仕事が楽しくなってきました。正確には、元々楽しくは感じていたんです。でも以前の“楽しかった”は、できないことができるようになってきたとか、やろうと思ってもぐにゃぐにゃだったイメージが具体的になってきたとか、そういう変化によるものだったりして。もしくは、アニメーションの技術が進化しハイエンドなものになってきたとか、世間の声優への理解が深まってきたといった外的要因によるものだったり。そういったここ十数年での変化は、自分だけでなくいろんな方が抱いていることかと思うのですが。とにかくこの業界に入ってきて、僕がやりたかったことはやっぱりアフレコで。語弊を恐れず言うと、僕は声優の芝居が尊重されてほしいとは1ミリも思っていないんです。

――詳しく聞かせてください。

僕らの仕事はあくまでアニメーションのパッケージとして、ひとつの面白いものを作る仕事だと考えているので、僕もプランを提示するし、自分のことを認めてほしい気持ちもあるけれど、制作側のことを受け入れないわけじゃないです、というスタンスなんです。だから、お互い主張し合いましょう?と。例えば「尺は直せないから、これで演じて」も、画の都合による主張ですし。ただこうも思うのが、僕は自由に演じたいタイプではあるものの、「好きな尺で好きなようにやっていいよ」は、自由ではなく不自由なんです。なかにはアニメーションのシステムに違和感を持つクリエイターももちろんいて、「口パクに合わせるのは自然じゃないから、自由にやってよ」と言われたこともあります。その考えも間違いではない反面、演じ手側が本当の意味で自由にやっているかなんて、誰が分かるだろうか?という話で。この画でこの表情でこのセリフ……という枠組みがまずあるからこそ、自由も存在するわけで、その枠組み自体がなくなってしまったら、それは自由ではなく模索になってしまう。枠組みのなかでいかに自由に表現し、高いクオリティを発揮するか。そこに声優の面白さがあると僕は思っています。

――不自由があるからこその自由というか。

そもそもアニメーションが面白くなってきた理由のひとつに、制限が挙げられると思うんです。尺の制限、無尽蔵なフルアニメーションがTVアニメでは通常難しいという制限……。そうしたさまざまな制限のなかで、アイディアを絞り、淘汰を繰り消しながらより良い表現・演出が残ってきた。そしてその制限は、僕らの仕事にも付いて回るものだと思います。少し話が逸れるのですが、僕が16歳の頃、大先輩である永井一郎さんに「声優人生で求めているものは何ですか?」と質問させていただいたことがあるんです。その際いただいた言葉が、ずっと理解できずにいたんですけど。

――何という言葉だったか伺えますか?

「どこまで自由にやれるか、どこまで自由になれるか。それを目指しています」と。今だんだんと、それを理解できるようになってきました。厳密には、永井さんがおっしゃったこと自体を理解できたのではなく、永井さんがくださった答えに対し、40歳を過ぎたあたりからようやく自分なりに思うものが見えてきた……というところなのですが。それを感じ始めている今が、一番声優をやっていて面白いです。視聴者側のリテラシーも高まり、喋れば内容は通用するし理解もしてもらえる時代だけれど、自分がやりたいことはそこじゃないんですよね。だってただ喋って理解されるだけなら、別に僕ら声優じゃなくてもいいでしょう?という話ですから。

――確かにそうですよね。

だから『青エク』のような原作モノをアニメ化する際、僕は「原作どおりにやるつもりはまったくないです」とお話ししています。なぜかというと、原作とは違うものになるからです。これはセリフを変えたいなどと言っているのではなくて、僕が読み解いた原作のイメージと誰かが抱く原作のイメージを、擦り合わせることができるのか?と。たとえ僕が「原作はこうですよね」と主張したとして、それはあくまで僕の主観であって、視聴者の方一人ひとりの主観を知り得ることは不可能じゃないですか。だから原作の本を捲る時間が、アニメで映像が流れる有限の時間に変わり、そこでどういうコミュニケーションが成り立ち、何を感じるか?という部分でさまざまな制限もあるなかで、いかにギリギリはみ出ることができるかに挑むのが、僕は楽しい。そういう意味で、今がすごく楽しいんです。多分この考えも、この先変わっていくと思います。でもとにかく、今ようやく自分の土台ができてきたなと感じているんです。